駅伝なんてなくなってしまえ。と駅伝ファンが思った日

文化スポーツライターキリンコ

駅伝なんてなくなってしまえ。と駅伝ファンが思った日

脱水や低体温でフラフラになりながらも、襷をつなごうとなんとか前に進む。怪我をして足を引きずりながらも走ることをやめない。駅伝中継で何度も見る光景だ。絶叫調の実況が重なり、胸が締めつけられるけれど、それは感動ではない。逆転ホームランを打たれたピッチャーを見るのと同じ「ツラい」気持ちがあるだけだ。力を出しきれなかった、結果に繋げられなかったアスリートを見るのは辛い。

 

胸を締めつけられても、うまくいかないチームがあっても「駅伝って面白い」と思えるのは、彼らの人としての価値がしっかり守られているからだ。もしブレーキを起こしてしまった選手がチームやファンから攻撃されて心身に決定的なダメージを負ってしまうなら、そんな駅伝はなくなってしまえばいい。

 

駅伝シーズンの皮切り、女子実業団プリンセス駅伝で、京セラのアンカーが残り1キロで転倒し、起き上がれずにチームは棄権した。すごくツラいけれど、アスリートに怪我はつきもの、仕方がない。ところがレース直後に、転倒して骨折したのではなく走りながら大腿骨を骨折したせいで転倒したと聞いて、一気に口の中が苦くなった。

 

健康な20代が走って大腿骨を骨折するって、そんなことある? 落下して地面に腰を叩きつけて大腿骨を骨折したことのある50代は、ショックを受けた。その時だって救急隊員は「このくらいで大腿骨は折れないはず」と言ったのに。一体どんな準備をしたらそんな体になるんだろう。

 

長距離関係者の一部から、若い選手が体重管理されることの恐ろしさを訴える発言が相次いだ。その切実さと、主催者、解説者をはじめ多くの関係者の何もなかったような様子の対比は凄まじかった。モヤモヤした違和感が抜けないまま、その後のいくつかの駅伝を見ることになった。

 

圧倒的なパフォーマンスはもちろんだけれど、私たちを何より魅了するのはアスリートのあの凄まじい出力エネルギーだ。彼らのパフォーマンスが心身を労らない日常からしか生まれないなら、応援はアスリートをダメにするものになってしまう。

 

あらゆるものを犠牲に準備をして力を出せなかったら、悔しいだろう。苦しいという言葉では表しきれないくらい苦しいだろう。それでもその苦しみが選手の人生を脅かさないでほしい。日常には当たり前の笑いや楽しみがたくさんあってほしい。日常の充実こそが、勝ち負けに関係なく震えがくるような、あの出力エネルギーの源であってほしい。

 

熱田神宮から伊勢神宮まで襷を繋ぐ全日本大学駅伝。優勝候補のチームで大ブレーキとなってしまった2年生を盛大にいじる4年生たちを帰途で見かけたと、SNSにあった。笑いながら囲む夕食が目に浮かび、なんだかありがたかった。苦しさ、悔しさと、夕食での笑い。全ての駅伝で、そんな想像をしたい。

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