人間、窮したことに受けた恩は忘れないものです。長野2区の務台俊介さんのこと

 予期せず産経新聞社を辞めた。リストラだ。「君はまだ若いからやり直せる」と言われた。51歳で会社を去った。自分は1991(平成3)年に終身雇用のつもりで入ったから途方に暮れた。急に辞めろと言われて何とかなるものではない。特に日ごろ、肩で風を切って偉そうにしている新聞記者など、辞めてしまえばクソの役にも立たない。辞めて5年はヒモだった。妻に生計を支えてもらった。
 ある日、自民党の議員たちの会合に行くことになった。「全国再エネ連絡会」(兵庫県西宮市)という、大規模な太陽光発電所や風力発電所ができて、生活が危殆に瀕している住民の後押しをしている活動をしていた。「真の地産地消・地域共生型エネルギーシステムを構築する議員連盟」という、再エネを抑制的に環境と調和させた形で進めるべきではないか、という立場で、僕は便宜上、「再エネ抑制議連」と勝手に呼んでいた。
 会長は古屋圭司・元国家公安委員長、会長代行が上川陽子・元外相、事務局長がコバホークこと小林鷹之・元経済安全保障担当相だった。ほかに引退した奥野信亮・元総務副大臣、坂本哲志・農水相、青山繁晴・参院議員らがいた。
 写真係をしていた僕は、議員に訴えかける静岡県や宮城県から来た反対住民とのやり取りを撮影して回っていた。
 会合が終了した後、僕はいろいろな議員にぶら下がって名刺を手渡して歩いた。記者時代の悪い癖で、偉い人がいると、ついぶら下がって追いかけて行ってしまう。ほとんどの議員先生は名刺を受け取ってくれたが、それだけ。ある大物政治家は秘書の方を顎でクイッとしゃくって見せて、それを合図に秘書が恭しく名刺を交換するといったこともあった。「実るほど首を垂るる稲穂かな」という諺があるが、それだけ人は功成り名を遂げるとふんぞり返るものだ。撮影した写真はすべての議員事務所に「ありがとうございました」という手紙を添えて送った。
 会合が終わって、廊下でぶら下がった一人に、務台俊介衆院議員がいた。僕が声をかけると「ああ」と言って立ち止まり、「僕は再エネは良いと思うが、場所を考えなくちゃ」と言った。「先生の事務所に後日、伺っていいですか?」と訊くと、「良いよ、いつでも来いよ」と答えた。当時、僕は確定申告が130万円。無名で、そして貧しかった。務台さんの言葉は身に染みた。務台事務所からは写真のお礼の手紙も来た。
 今回の衆院選、務台さんは落選の危機らしい。どうも地元では「頭が高い」と評判が悪いらしい。あるときは「おんぶ!」とヤジを飛ばした消防団幹部に激怒したことあったらしい。
 確かに子供がそのまま大人になったような人で、機嫌が悪い時に事務所を訪れると「何の用? 何にも話すことはないよ」と早々に追い返されたこともある。だが、根はやさしい人だし、何より会社を辞めて、落魄の身の僕に声をかけてもらったことは、何よりもうれしかった。だから自身のユーチューブで、務台さんの日ごろの姿を伝えさせてもらった。
 務台さんの訴えには、なるほどと思う面は多々ある。ふるさと納税制度ならぬふるさと選挙制度、ろくに日当が出なかった(京都府など)消防団の改革、山の日の制定。いつ事務所を訪ねても「それは東京の話だろ。安曇野とは関係ないじゃないか。信州を何とかしないといけないんだよ」と言い出すので、閉口することもしばしばだった。外交・防衛はどちらかと言えばタカ派だが、文化人放送局に出演できるほど、「振り切れて」もいない。
 それでも杉田水脈参院議員、青山繁晴参院議員、橘慶一郎官房副長官、小林鷹之・元経済安全保障担当相と応援に駆けつけてきてくれている(実は杉田さんとはかなり仲が良い)。無骨で、確かに偉そうに見えることもあるが、務台さんより偉そうにしている代議士など山ほどいる。メディアで禄を食んでいる人間が口にしてはいけないかもしれないが、僕は務台さんには石にかじりついてでも国会に戻ってきてもらいたい。

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