いわゆる「社会的弱者」は本当に弱者か?

 今回は社会的弱者について書こうと思う。最近はLGBTの議論でも「性的マイノリティは“社会的弱者”であり、これらの方々の人権を守らなければならない」やら、アイヌ政策の議論でも「和人に虐げられて来た“社会的弱者”のアイヌ民族を保護すべき」というような声が大きくなってきた。

 今、日本では“社会的弱者”という言葉が溢れかえっているが、私はこれらの方々の全てを「弱者」だとは考えていない。弱者の中には、車椅子ユーザーの方や、耳や目が不自由な方もいる。何らかの理由で経済的に困窮している方もおり、これらの「我々が手を差し伸べる必要がある弱者の方々」がいる一方で、「自分を弱者だと主張し、そこからお金を得ようと目論む人権屋…例えば似非同和や一部在日外国人等々…の輩」がおり、一口に“弱者”といっても様々だからだ。

 北海道議会議議員時代、私は「我々の助けを必要とする弱者」と「厳しくチェックされるべき似非弱者」の両方ともを出会ってきたが、皮肉な事に前者は往々にして“健常者よりもしっかりとした考え”を持ち、我々からの援助をなるべく受けないで強い精神で明るく前向きに人生を歩んで行きたいと考えている方が多かった。健常者である私が社会的弱者を見る時に如何に偏った見た方…健常者が優れており障がい者は可哀想…をしていたかを痛感した事も多々あった。例えば、手話を使う“ろう者”の方々は「うるさい場所でちょっとでも離れると会話が出来ないなんて健常者は不自由だろうな」と我々を見ており、目が不自由な方は「空気の変化から周りの状況を把握出来ず、停電の時はすごく不自由している」と逆に我々を哀れに思っていることがあると知ったのだ。

このように“立場と目線”を変えると、我々の方が弱者となり得るのだ。一方、後者は往々にして「堕落した精神の中で死んだ様に生きており、「自分さえ良ければそれで良い」「楽をしてなるべく多くの金を貰いたい」「バレなければボロ儲け」と言った良心の呵責の欠片もない「自称“弱者”」を見続け、本当に呆れたものだった。特にアイヌ事業では事業報告書の領収書偽造は日常茶飯事で墓参りにも税金が措置される仕組みを見続けた。アイヌ政策で大金をせしめる者が多々おり「何処が弱者なのだ」といつも疑問に感じていた。

 日本で人権による社会の分断が急速に進んでいる今、我々は全てを一括りに“弱者”と捉える事をやめるべきである。似非弱者の存在は本当にサポートを必要としている人に十分な手を差し伸べられない要因となり、更にこの日本を転覆させるだけの危険性を孕んでいるからである。我々は、弱者でもないのに「自分は弱者だ!何でも面倒を見ろ!」と騒ぎ、おこぼれを搾取する“下品な輩(やから)”を排除し、弱者の立場をを利用し社会の分断を目論む反日勢力を追放しなければならない。

 日本人は弱き者に優しい。それはそれで誇るべき素晴らしい民族性であるが、それも度を越すと悪を容認していることとなり、自らの首を絞めることになりかねない。欧米では「移民政策」や「LGBT」を推進し過ぎたことで社会に大混乱が生じており、現在は「弱者保護の見直し」に大きく舵を切っている。日本は彼らと同じ轍を踏んではならない。

いわゆる「社会的弱者」は本当に弱者か?”へ1件のコメント

  1. lone より:

    マルクス主義者は「理想郷を作る」という目的のためなら嘘も卑怯も残忍極悪非道も許されると信じる。これは、無神論という宗教であり、日本人が人に感謝する(恩を感じる)ところを、一神教信者は神に感謝し、マルクス主義者は自分に感謝するという違いがあるのだと思う。
    戦後日本は、日教組による3世代にわたるマルクス主義の反日嘘歴史教育を受け、自分の祖先である日本軍のやってもいない戦争犯罪を信じ込み、軍隊は悪で無防備なら非道な略奪拷問虐殺を受けないという嘘を信じ込んだ。これが嘘だと言うことは子供の喧嘩でも明らかなのに。もちろん嘘を見抜いた人も多いが当然モラルハザードが起こったはずだ。

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