BLITZ推しでいこう#7

~「やりたいから」と漕ぎ出す55歳のシンプルな挑戦~

車いすラグビーチームBLITZ  山村泰史選手

文化スポーツライターキリンコ

BLITZ推しでいこう#7
~「やりたいから」と漕ぎ出す55歳のシンプルな挑戦~
車いすラグビーチームBLITZ  山村泰史選手

「もう一度車いすラグビーを始める」55歳の宣言を、昔の車いすラグビー仲間である島川選手も、ラグ車のメーカーも、家族も、すぐには信じなかったそうだ。車いす同士の激突、転倒もあたりまえのこのスポーツは、50を過ぎてから健康維持のために…と思い立つにはあまりに激しい。

 

「今年1月の日本選手権を見て、今やらなかったら後悔すると思った」と振り返る山村選手は、実は日本の車いすラグビーの草創期を知る選手だ。日本に車いすラグビーをもたらし、アテネ、北京パラリンピックで監督を務めた塩沢康雄氏に誘われたチームで初めて海外勢と対戦した当時、日本にはラグビー用の車いすなどなかったそうだ。バスケ用の車いすにメーカーが見よう見まねでバンパーをつけてくれた即席のラグ車で試合に臨んだという。「それをカナダやニュージーランド勢にボロボロにされて」と懐かしそうに笑う。

 

今のようなパラスポーツ用の施設も、アスリート雇用などの支援も、ましてやこのスポーツのファンなどあるべくもなかった時代。障がいに対する社会の理解も今とは全く違う環境の中で、あえて最も激しく厳しい車いすラグビーという競技を選んだ選手たちは、今以上に「ぶっとんでいる」存在だったのかもしれない。

 

中学時代にサーフィンの帰りの自動車事故で頸椎を損傷した山村選手だが、そこからの経歴が何ともすごい。養護学校への入学を拒否してハワイ、そしてロサンゼルスで生活し、帰国してからも陸上、水泳、テニス…とあらゆることに挑戦してきたという。「親も『いいよ』って言ってくれて、景気もよかった頃だしね」とこともなげに話すが、いやいや「やりたいことをやる」のは口で言うほど簡単ではない。たとえ、車いすに乗っていない健常者にとっても、だ。

 

やりたいから挑戦し、仕事や子育てと競技との両立が難しくなったから離れた。その行程は、進む前にまず障壁の大きさを測りたくなる私たちの迷いを、吹き飛ばすほどにシンプルだ。「世界と戦おう」「障がい者のスポーツの価値を高めよう」そんな遠くの目標ではなく、一歩先の目標への挑戦。それを繰り返せばはるか遠くまで進めることを教えてくれる。現にこのスポーツは、山村選手が始めた頃からの数十年間も歩みを止めず、気づけば世界のトップにまでたどり着いたのだ。

 

「やりたいときに始められるし、やめたくなったらやめればいい。今はとにかく久しぶりに仲間とやれるのが楽しくて」と車いすラグビーについて話す山村選手。では車いすで生活する壮年の人たちに、このスポーツを勧められるかと言えば…やっぱりそう簡単なことではない。それでも「よし、やろう」そんな一言でこの凄まじいスポーツの世界へ漕ぎ出した山村選手の肩越しにのぞく視界は、気持ちいいくらいに広い。