岸田首相、あなたに国家を守る使命感はあるのか。
2024年3月22日午前3時。
2時間前に、韓国の友人から電話があった。
話題は、北朝鮮のことで、それに関連して、久しぶりに、米国政府の厳重庇護下にある、ハンソル氏の近況を聞いた。
ハンソル氏は、2017年2月、マレーシア・クアラルンプール国際空港で、北朝鮮の謀略によって公開処刑された、金正恩総書記の実兄、金正男氏の長男である。マカオにいたが、「北朝鮮の暗殺部隊が向かっている」との緊急通報を受け、CIAと反北団体(金一族独裁体制打破を目指す脱北者グループ)が間一髪、マカオから脱出させて、米国に匿っていた。
「元気だ」
友人はそういった。
前日、銀座にある文化人放送局のスタジオで、元大王製紙会長の井川意高氏との対談があった。井川氏はいつも爽やかだ。周囲を明るくする。彼の博識と、日本を憂うその熱情には、ただただ頭が下がる。
文化人放送局の司令塔の「無茶ぶリP」から、「コラム、早く書いて」と、またいわれたことを思い出した。何を書こうか、悩んでいて、ふと35年前に知り合った「日本人スパイ」のことを思い出した。
35年前の1989年、僕は32歳だった。
その7年前、ある事件がきっかけで、僕はCIAの日本人工作部隊の幹部と知り合い、彼に連れられて、在日米軍横田基地によく遊びに行っていた。そこで軍の情報部の将校とも会い、そうしたなか、太平洋戦争の話題になり、彼らは口々に「日本兵は優秀だった」といい、「そうだッ、まだ生き残っている、伝説の日本人スパイがいる。会わせてやる」といった。
それが、大久保仁氏だった。当時、80歳前後。ただ、「大久保仁」という名前は、実は、本名ではない。彼は戦後、なぜか名前を幾つも変え、どんなに親しい人間にも、本名も実年齢も出身地も、自分のことは何ひとつ教えなかった。
大久保氏の住まいは練馬区の外れにあった。家全体が斜めに傾いでいて、まるで横綱の張り手で壊れてしまうような古い木造長屋だった。4つの部屋がベニアのような薄い壁で繋がれ、同じ造りの長屋があと2棟、肩を並べるように建っていた。老人ばかりが暮らし、部屋の広さは四畳半。押し入れもない。小さなテーブルと箪笥と、畳んだ布団を置いたら、それだけで部屋の中はあふれた。
大久保氏はいつも寡黙だった。僕が何を聞いても、頑固そうな顔を少し歪めて、「はい。そうですね」「そうだと思います」とだけ答えた。ただ、日本の敗戦について聞くと、唇をかみしめ、俯き、呻くような声で「自分の責任は重大です。申し訳ないと思っています」とだけ繰り返した。
2年間通って、分かった事実は、彼が大日本帝国陸軍・近衛師団にいたこと。その後、帝国陸軍最高の情報部員養成機関、陸軍中野学校に行き、太平洋戦争真っただ中、中国に派遣され、大連から奉天(現瀋陽)、ソビエト連邦(現ロシア)国境近で情報活動を展開していたこと。そして終戦時、日本に帰る機会を失い、中国に潜伏、終戦から10年後に帰国、その時、妻子も親族も全員空襲で亡くなり、天涯孤独の身になっていたことだった。
大久保氏はいつも、僕と話をしていると、最初は、背筋を伸ばして、両手を両膝の上に置き、端然と正座をした。しかし30分もすると、頭を下げ、「すみません」そういって膝を崩し、立膝をして、右足の臑(すね)に掌を当て、何度もさすり、痛みを和らげるような不思議な動作をした。
「膝が悪いんですか?」
僕がそう聞くと、大久保氏は「いやぁ」と照れたように笑うだけだった。
一度だけ、大久保氏がその撫でていた足を、爪で弾いた時があった。そして「どうだ?」というように、いたずら小僧のような顔で僕をみたことがあった。それは本当にたった一度だけのことだった。
大久保氏が亡くなったという連絡は、突然、やってきた。隣の住む老婆からの電話だった。彼女が部屋をのぞくと、大久保氏が倒れた姿で死んでいて、テーブルの上に、小さなメモが置かれていた、「自分が死んだら、加賀孝英という男に連絡して欲しい」そう書かれていたという。彼女は嗚咽をこらえながら、「いつでもいいですから、一度こちらに来て欲しい」といった。
3日後、大久保氏の部屋を訪ねると、そこに3人の老人がいた。一人は隣の老婆だった。
大久保氏はすでに遺灰になっていた。部屋には立派な祭壇が置かれていた。
「最初はね、私ら、大久保さんの冗談だと思っていたんですよ」老人の1人がそういった。「大久保さんはね、私らに、『俺の右足には金の延べ棒が埋めてある。中国から命からがら逃げる時に、俺が自分で足を切って入れた。頼みがある。俺が死んだら、この金で葬式を上げてくれ。余った金は、みんなで分けてくれ』って。そうしたら、火葬場で本当に金が出たって」そういうと、老人は声をあげて泣きだした。
隣の老婆が「これ」といって、僕に紙を差し出した。大久保氏がテーブルの上に置いていたというメモだった。
3人の老人と、安い酒を飲み、形ばかりの葬儀をやった。
3人と別れて、夜道を歩いていた時、急にこみあげてきて、僕は人目をはばからず泣いた。メモには、僕の連絡先の後に、僕宛てのメッセージが書かれていた。そこには「日本が戦争で負けたのは自分のせいです。自分はもっともっと早くに死ぬべき人間でした」と書かれていた。
――日本を守ろうと、命をかけて、血まみれで戦った日本軍の兵士がいた。
先の大戦で、310万人もの日本人が犠牲となった。日本は、慟哭と絶望と焦土と、見渡す限りの廃墟の中から立ち上がった。
それを考えた時、怒りが猛烈にわいてきた。
岸田首相、あなたに国家を守る使命感はあるのか。ふざけるな。
- カテゴリー
- 無料